セラピスト紹介

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セラピスト紹介

與儀史江
よぎふみえ

活動歴 : 15年
出身地 : 沖縄県那覇市
趣味 : 映画鑑賞。ドライブ。絵を書いたり、愛猫ゴン太と遊ぶこと。

與儀守剛
よぎもりたけ

出身地 : 沖縄県那覇市
趣味 : 自然。(生き物大好き。グッピーの品種改良を30年以上やっていて、独自の品種がいます。)

オーナー與儀守剛のプロフィール

1973年1月27日5人家族に生まれる。
生まれつき虚弱体質で、各種アレルギー・アトピー性皮膚炎・呼吸器・循環器系が平均より小さく、家で過ごすより病院で過ごすことが長かったことを覚えています。当時はアトピー性皮膚炎という言葉もなく、うつる病気と思われ、それが原因で小学生から高校まで壮絶なイジメに合いました。体中傷だらけで、教科書はボロボロ、イジメを口にすると家族が苦しむ…限界を感じて死を覚悟し、海の中へ身を投げました。

「これで楽になれる…」と思いつつ、わずかな意識は薄れていきますが、なんと全長1mほどのウミガメが私を水面へゆっくり押し上げ、生きる道へと誘ったのです。死ぬことが許されないなら、一度死んだ気になって、医者から匙を投げられたアトピーを改善しようと毎日海へ向かい荒行を重ねました。皮膚はどんどん剥がれ落ち、アナフィラキシーを起こしながらもシーフード以外のアレルギーは克服しました。日々のトレーニングと自分を信じることで道は開けることを実感したのです。

高校時代はバイトにあけくれ、自転車を買い、通学に利用したことで呼吸器も強くなりました。また、幼い頃初めて買ってもらったグッピーを大切に飼育し続け、イジメや辛いことがあっても彼らを眺めていると心が落ち着き、誰に教わることなく遺伝的なことを独自で研究していました。35年経った今ではオリジナルの品種を持ち、一目見ただけで遺伝パターンが理解できるほどになったのです。

大学時代もバイトを重ねて学費を捻出し、専攻科目より自然科学系の授業ばかり受講していました。公害原論・生態学・土壌生物学の権威ある先生方の指導の下、沖縄の環境保護活動に没頭した自然と人間の共存共栄、自然を育みつつ人が自然に寄り添う生き方やあり方について日々考えました。

学生時代からのバイトを合わせると、食品業・サービス業・消毒会社・電気関係など様々な仕事を経験してきました。そして30代の時、仕事帰りに多重玉突き事故に合い入院することに。リハビリや職探しをする中で、求職者向けのエコツアーガイド養成講座に興味を持って受講した時に、そこでセラピストである史江と出会ったのです。その後、学んだことを生かして、内閣府主催「海の生き物たちと触れ合う」のレクチャー講師として2年間活動しました。

彼女の何気ない言動に苛立ちを覚えながらも刺激を受け、幼い頃から封印してきた感性や感覚を思い出しました。スピリチュアルをずっと否定してきた私が彼女と出会い、色々な質問を投げかけました。そして、彼女の説明を聞くたびに自分の中が整理され、違う表現やニュアンス、尺度の見方・捉え方ができるようなり、ともに仕事を始めることになったのです。二人で「moondrop」というユニットでフリースタイルで活動し、徐々に口コミで人気が広がっていきました。

離島への出張や、県内での地道な活動により、6年後に「月の雫-A Source of Light-」をオープンさせました。初めはわずかな天然石を少しずつ仕入れて販売しているだけでしたが、石がより輝き、最大の魅力を発揮できるようなラッピングの手法も学び、石についての造詣も深くなりました。札幌に出張に行った時には、偶然出会ったアイヌの方に「あなたのつけているペンダントは邪気を寄せつけない特別な編み方だ。是非扱わせてほしい。」と熱烈なオファーをもらったこともありました。

そんな充実した日々を送る最中、2013年に突然、「ミラーフィッシャー症候群」「ギランバレー症候群」という難病に倒れました。目も見えず、全身に違和感を感じ、緊急入院して車いすに乗る毎日。一日の大半はベッドの中…再び、死を意識する毎日が続きました。色々な方に励まされ、自分を信じてトレーニングを重ね、病院の反対を押し切って退院。通院するたびに担当医を驚かせ、「一生車いす」と言われた言葉を覆して、後遺症もなく快復しました。

私はこの人生の中で「自分自身をありのまま受け止め、自分を愛し、大切にすることで道は開ける。」ということを学び、体験してきました。これからも豊富な経験を活かし、人生について提案しながら楽しく活動していきたいと思います。

セラピスト與儀史江のプロフィール

1969年12月14日に5人家族の末子として誕生。幼い頃から見えない存在や植物・動物たちと対話し、彼らに向かって話しかける私を見て母は不思議に思ったと言います。おしゃべりが好きで知らない人にも声をかけ、空を眺め風に吹かれ、ぼーっとするのが大好きでした。また、4歳の頃に「本当の家族は別にいて、今いる家族は仲間だ。両親も大好きだけど、親と呼べる人は他にいる。」と思い、大好きな絵本とパンツ一枚を袋に入れて、家出したことを鮮明に覚えています。

色々なことに疑問を持ち、自然と人の繋がりや、見えない世界への興味は深まっていました。小学生時代は男女関係なくみんなで遊び、人を笑わせ、人と対話することが大好きでした。しかし、小学校六年生と中学校一年生の頃にイジメに合い、明るく伸びやかな性格は一変し、人の顔色を伺い気を遣う性格になったのです。

中学校・高校では郵便友の会に所属し、全国に友達を作って海外の人やいろんなジャンルで活躍する人と出会い、旅を通じてたくさんの刺激を受けました。弁論大会に出場したり、学生会議の議長を務めるなど、出会いやご縁を楽しみました。

短大に入ると大阪で一人暮らしをスタート。自分と向き合い対話するきっかけになりました。卒論準備を始めた二年の頃、講堂で学ぶ学生の頭や体から、様々な光が放たれているのが見えたのです。周りを歩いている人、自分の手や体からも白い光や渦のようなエネルギーを感じるようになったのです。

社会人になる頃には、仕事で関わる人の心の声、体の悲鳴、本音と建前、いろんな想いが電波のように体に伝わり、体中が電気に打たれたような痛みが走るようになりました。呼吸も苦しくなり、眠れなくなる日々でした。自分に何が起こっているのか訳がわからず、仕事を休むも症状はひどくなり、救急車で運ばれることも多かったのです。

病院や宗教、たくさんのユタ、神人のもとを訪ね、原因を探しましたが、聞かされる内容は同じでした。
「浮かばれないご先祖様がいて、助けを求めている。あなたと同じ苦しみを味わって、もがいているご先祖様がいる。あなたがやるべきことをしないからです。神の道を歩みなさい。」

それを聞いて、ふと大きな疑問が湧きました。
「自分を守ってくれるご先祖様が、自分が苦しいからと子孫を苦しめるのか?辛い思いをしたから同じ思いをさせようとするのか?」
私ならかわいい子孫にそんなことはしません。
「ではこの現象は何だろう?」

どこに行っても答えは見つからず、一日中毛布にくるまり、夜起きて明け方に眠る生活を繰り返しました。

ある時、父や兄が帰宅すると、その日一日の出来事や状況が顔を見ただけで伝わり、どんな所で誰と会い、何をしたか、家族や知人の今日の出来事が頭の中に浮かぶことがありました。しかし「私が少し前の情報を言い当てたとしても何になるのか?」「何を創造できるのか?」「その先に何があるのか?」「自分をコントロールできないのに、周りの何がわかっても何の意味を成すのか?」と、毎日が葛藤の連続でした。

「このままでいいのか?」「本当にこれが本来の私なのか?」「なぜ普通の生活ができないのか?」と、真剣に自分に問いかけ、一大奮起してアルバイトをしながら専門学校に通い、ビジネスに必要な資格を少しずつ勉強しました。そして、秘書検定・日商簿記・ワープロ検定、数年後には医療事務・医療秘書・診療報酬請求事務の資格も取得したのです。

体はボロボロになりながらも、温かな出会いに恵まれて、刺激もたくさん受けました。痛みも苦しさもあるけど、好きなことや将来をイメージすると痛みが和らぎ前向きになれたのです。

そんな時、心のビジョンに仙人のようなおじいさんが現れ、瞑想や断食を通して、体調のコントロールの仕方など色々なことを教わりました。具体的な対話は一年ほど続き、体調は劇的に変化。ハードな仕事もこなし、普通に働けるようになった頃、声なき声が内側から響いてきました。
「私の中から言葉が湧いてくる…でも、私の表現ではない。」
それは普段、私が使わない言葉の数々でした。その内容も奥深く、口にしても表記しても、心地いい言葉ばかり。声なき声の対話は広く深く私の中に浸透していきました。地球のこと、宇宙のこと、大自然のリズム、私自身のこと、生きとし生けるものについて、まるでドキュメンタリーや映画のような奥深い内容だったのです。

スピリチュアルな感性は誰もが持っているもの、それに気づくか気づかないかは自分次第。すべては自己選択と自己責任なのです。

「どんな世界の住人になりたいのか?」と問いかける時、自分を愛し育むこと、そして自分に感謝することが答えの入口であり、きっかけとなることを私は提案しています。
そんな活動を続けて15年。口コミで広がった絆は北海道から沖縄まで広がっています。